先日公表した政策リーフレット(p2)においては、以下の5つの「まちづくり」を目指すとしています。
・地域の芸術・文化を守り発展させる「まちづくり」
・農や自然が日常の中に溢れる「まちづくり」
・より付加価値の高いモノ、コトづくりが生まれる「まちづくり」
・ジェンダー平等を目指す「まちづくり」
・外国籍を含むすべての子どもがずっと住みたくなる「まちづくり」
「まちづくり総論」というと大袈裟ですよね。でも上京して国立にやってきてから14年間、私なりに経験し、(特に学生の期間に)考えてきた「まちづくり」をまとめることは大切な作業だと思い、そうすることにしました。大きく分けると、ベースとなる考え方ができたのが大学生の時代で、それ以降はそれに基づいて実践をしてきたつもりです。
途中で飽きてしまったら、遠慮なく読むのを止めて下さいね。
「まちづくり」との出会いは、大学1年生の春。
授業のコマを埋めていかなければと、たしか火曜日か木曜日の2限目の空欄を見つめていた時でした。
授業の一覧に目を移すと、渡辺治先生という政治学のいわゆる「大御所の授業」と「まちづくり」とひらがなで書かれたいかにも簡単そうな授業。
正直、せっかく大学に入ったなら、有名な先生の授業を受けてみたいと思っていたのですが、渡辺先生の授業が退官前の最後の授業ということで会場が兼松講堂になったんですね。
兼松講堂は、授業にしては大きなホールです。「絶対寝ちゃうなー」と思ってそれは止めておこうと。それで消極的に選んだのが林大樹先生の「まちづくり」という授業でした。(林先生、すいません。)
早速、授業が始まります。最初の内容は全く覚えていません。ただ、授業の最後に、いきなり「ロシアに行ってみませんか?」と林先生から唐突なお知らせが。
留学にはもともと興味があり一人で行くのはなんとなく怖かったのですが、何人かの学生チームでいけるということ、あとはお金が旅費と宿泊費を負担してもらえる、ということで、3秒くらい悩んで、手を挙げました。二人を募集ということで私ともう一人が手を挙げたところで、募集終了。その直後、プロジェクトリーダーであり地域で編集者をしていた田中えり子さんとの打ち合わせ。30分ほどで渡航決定!いや、運命が30分で決まっちゃったのです。
田中さんからは、「学生一人一つ、向こうの大学でプレゼンやるから頑張ってね宜しく!」という重い言葉を投げかけられました。多分、必要以上に重く受け取っていました。
それから前期の勉強は、ほとんどロシアの大学生向けに行う英語のプレゼンテーションのことで頭がいっぱいでした。
何を発表するか、どうやって資料を集めるか、英語を短い期間でどうやって身につけるか、など。悶々とうろたえる日々。私が広島出身だったということもあり、原爆についてのプレゼンテーションをすると決めて、広島に帰って資料を集め、原爆資料館で写真を撮りまくり、東京の家に帰ってそれを広げてみると、気持ちは重たくなるばかり。
それから夏休みを経てなんとか内容をまとめた後、9月に学生と社会人合わせて約15名ほどでロシアへ。モスクワに少し滞在した後、チュバシュ共和国のチェボクサルという街(首都)で、現地の大学生のサポート受けながら一週間ほどのホームステイをしました。
ロシアで経験したことの全容はどこかで改めてお話する機会があれば良いなと思いますし、当時の学生チームでまとめた日記がどこかにあるはずなので、それを探しておきますね。※帰国後に学内でチュバシュ展を開きました。(「国立歩記」HP:http://kunitachiaruki.jp/?p=1743)
兎にも角にも、私の眼前に晒された、事実としてのファンタジーのような遠いロシアの一都市の姿に、私の脳内不安は一気に吹き飛び、少しでも空っぽにし直して、その風景を丸ごと脳内へコピペしようと必死になったのでした。
生まれ育った広島、19歳から今まで過ごしている国立、そしてそのチェボクサリの風景は当たり前ですが全く異なります。人口密度や道々の広さ、商店街の雰囲気、大企業の有無、外国人の割合、労働に対する価値観などが、目立つ違いでしょうか。
共通点としては、高い建物が少ない、大きな川(太田川・多摩川・ヴォルガ川)、森や畑といった自然の風景や無機質な団地が随所にあったり、 ジェンダー的には男性の権力が強そうなところだったり。良いところ悪いところ、それぞれで似ているところがあります。
そうして、濃淡はあるもののそれぞれの暮らしを体験してみて実感したのは、街は「つくる」ものではなく「つくられる」ものということです。
「まちづくり」をする、と言うとあたかも理想の街があって、主体的に全員がそれに向かって建物を立てたり直したりしていくイメージがまず湧きますが、全くそんなことはなくて。
現代の多くの街は、そもそもお互い知らない者同士がほとんどで、自分の知っている比較的狭い範囲で物事が考え組み合わせられ、自分の行動範囲で新しい物事が少しずつ作られていく。その歴史的な総体がユニークな「まちづくり」のように見えることもあるけれど、実態は個々の積み重ねの集合体でしかない。
だから、「理想の街」があるにせよ無いにせよ、(独裁国家でない限り)主体的に誰かが全体をコントロールするのは不可能に近いことだと思うし、ある意味、自然に各々で積み上げられていく「まちづくり」を感じ少しずつ関わることしか住民にはできないことなんだと思います。そして、住民各々が感じるその「まちづくり」は、見る人の社会的背景によって見え方が異なってくるということもあります。だから、誰から見ても一貫した「まちづくり」を実践していくことは難しいでしょう。
さて、私のプレゼンテーションはどうなったのでしょうか。訪問先のロシアの大学は、英語がある程度通じるものの、私がそれをスラスラ話せるレベルには程遠かったので、前日の夜中まで原稿を唱え続け丸暗記しました。発表当日は、プレゼンというより演劇をしている気分でした。今でも覚えていることは、参加者がシーンととても集中して聴いてくれている感触です。私が意識したことは、原爆被害の事実を伝えるよりも、原爆被害者の感情をいかに伝えるか、ということでした。
別の日に、同行したアーティストの木村健世さん(『国立文庫』も手がけるhttps://kunitachihonten.info/?p=248)のコーディネートで、現地の学生たちとフィールドワークをして住民や大学の職員にインタビューをし、それぞれで聞き取った話を一枚の「絵本」にするというワークショップを行いました。
お巡りさんから司書さんまで、作業自体は非常に面白いものだったですが、結果的に作られた絵本のストーリーや、そこでの登場人物の様子はとても「普通」に感じたんです。言い換えると、「うん分かる分かる」って共感できることばかりで。
日常で人が悩んだり、喜んだりすることのほとんどって世界共通なのかもしれないなって、素朴にそう思いました。映画で感じるような「異国」とは一味違いましたね。
ロシアでのプレゼンテーションとワークショップを通して感じたことは、「悲しみや悩みを通して人は繋がれる」ということです。もちろん、喜びや楽しみも大切ですが、一見するとネガティブな感情に、人柄の本質や本音を感じ取り、共感や安心、信頼感を人は覚えるものなのかなぁと。ロシアでは私が「外国人」になったことで、それをより鮮明に感じたのでした。
じゃあ、その「人の繋がり」と「まちづくり」がどう関係があるのか、という話はまたあとで。
日本に帰国してから、ロシアで経験したワークショップを国立でもやってみたいと思い、大学の「まちづくり」の授業の中で開催できることになりました。そこでまた学生チームを作り、街で暮らす人々へ次々にインタビュー。取材内容をそれぞれポスターにまとめ、公民館や街中で展示会を開いたのでした。(くにたちアートプロジェクトHP:https://kapweb.exblog.jp)
特にお店で働いている方々のストーリーが印象的でした。日々悩みながら、お客さんと向き合って自身の個性を生かし良いサービスや商品を生もうとしている姿を、生で感じとることができたのが新鮮で。いろいろな方の話を聞いて、街の一部分だけでも何か特徴をつかんだような気がして、嬉しかった記憶があります。身の回りで、誰がどんな思いで働いているかを一人でも多く知ること、それは今でも大事だと思っています。
その企画を通して、私にとっての「街とのつながり≒人とのつながり」ができてきました。これまで受験勉強などで知ってきた社会の姿よりも、現実のまちづくりの方がはるかに生々しく面白いことであると実感するようになってきました。そして、この街のストーリの一部として、私の「歴史(人生)」も作っていきたいと次第に思うようになっていきました。
沖縄に「世界のウチナーンチュ大会」(HP:https://wuf2022.com/ja/)というものがあります。それは概ね5年に一度、世界各国の沖縄系移民の子息たちが一斉に集うという会合・フェスティバルなのですが、大学3年生の時に所属していた伊藤ゼミ(HP:https://www.soc.hit-u.ac.jp/~trans_soci/itoactivity2011.html)のフィールドワークで見学に行ったのでした。肌の色やファッション、言語も異なる人同士が、遠い「親戚」として時代を超えた再会を喜び合っている風景に、なんとも言えない感動を感じたことを覚えています。
街を挙げてのこの大会は、簡単に言えば沖縄という地域にとっての「人の繋がり」を軸にした「まちづくり」の一環です。商談会のようなものから、世界各国の飲食ブース、大通りのパレードまでありますが、HPにも書いてある通り、「ルーツやアイデンティティーを確認し次世代へ継承していくことを目的」として、人とのつながりを確認し継承するイベントなわけです。
沖縄は、もともと血縁関係が重視されることでも有名ですが、「ルーツやアイデンティティ」、言い換えれば歴史を共有、継承することで、仲間意識を維持していこうという趣旨はダイレクトでとても分かりやすい。つまり、それは「街があってそこに人が集まる」のではなく、「人が集まってこそ街ができる」という発想につながるのだと思います。
じゃあどうして人が集まるのかと考えると、「歴史(物語)を共有している、したいから」ということになるのでしょう。沖縄の独自性はありますから一般化はできませんが、「結果的に集まった人々とどうしていきたいか考えていく」という発想はとても民主主義的で、自分たちが住みたい街を自分たちの意思で作っていくという方向に自然に向いていくのではないでしょうか。
そんな沖縄での経験もあり、私にとっての「まちづくり」は、「どんな街にしたいか」ではなく「どんな人と関わっていきたいか」に関心が変化していきます。
そこから、社会人になって5年目(今から4年前)の話に飛びます。
ひょんなことで精神疾患や発達障害がある方が集う職場でアルバイトをするようになってから一年、そこの職員のお誘いもあって毎日しっかり働くことに。そこから本格的に「ソーシャルワーカー」として仕事をすることになります。
そこで働くことになったのは偶然の要素もありますが、必然的に感じることも多くて。そう感じる一番大きなことが「悩みの共有」の大切さに再び行き着いたことです。
私自身は悩みや苦しみを人に話すことはもともと苦手だったのですが、そこでは「悩み」を聞くことがまず仕事なわけです。すると、自然に「あなたは悩んでいることないんですか?」って聞かれる機会が出てきます。仕方なく答えるのですが、自分の悩みを打ち明けることで、信頼関係ができていくことが度々起こるんですね。
話の初めは互いに愚痴っぽくでも、「それはなんで?」とか「もっと詳しくはどんな気持ち?」と掘り下げていくと、だんだん本質的な悩みに近づいていく。信頼関係ができるほど、さらに近づいていくわけです。初めはもちろん、見ず知らずの人ばかりです。でも、これを繰り返して相手をどんどん知っていくと自然にこの人と共同作業をしてみたい、何かを作ってみたいと思うようになっていくんですね、不思議と。
それが一般的なことかは分かりませんが、とにかく私にはこんな心理的変化があり、精神疾患や発達障害がある方とオリジナル商品を作っていくことに火が付いていきます。
「(支援者である)自分が作ってみたい!」という主体的な気持ちが、生きづらさを抱えている人に対するエンパワメント(励ましや後押し)につながっていくことも、やりながら実感していきます。
やっぱり、「気の合う人」と仕事をすることは大切だと思います。ただ、どうしたらそんな人と出会えるかを考えると難しい。出会いを期待することよりも「気を合わせていく」ことの方が上手くいく確率が高そうな気がします。そして気を合わせるには「悩み」を互いに掘り下げていくこと、これが非常に重要になるなと。私は、それを掘り下げていく技術をソーシャルワーカーとして磨いてきたのだと思います。
他方で、市役所を退職してから、ちょっとずつ作り上げてきたのが街の中でのお祝い行事の企画です。特に街中での結婚式は、ファッションや食、音楽などいろいろなアートの要素が盛り込まれていて、多くの人に関ってもらえるんじゃないかと、こだわって企画してきました。(CommunityWedding HP:https://www.machi-kadode.com/複製-門出のご相談)
年に1回くらいですが、半年くらいかけて、多くの人がそれぞれの特技や言いたいことを持って集まって、それを披露する。「結婚式」という名前、形式は、ある意味「言い訳」であって、その本質は(ウチナーンチュ大会のように)関係者の歴史、特徴やアイデンティティを確認する場であると考えています。
そういった場を今後一つでも増やしていくことを念頭において「まちづくり」に関わっていきたいと思います。
遡って、大学5年生(留年時)の時に企画した、「国立パワージャズ」(HP:https://www.facebook.com/KunitachiPOWERJAZZ/?locale=ja_JP)。これは兼松講堂を始め、街のいろいろなところで同時多発的に音楽ライブを無料または安価で参加できるいわゆる「ジャズフェス」で、サークルの先輩が企画してきたイベントをそのまま引き継いだのですが、私の時は行政(国立市)と商工会との連携プロジェクトとして開催されました。
いわゆる「産官学」連携とも呼ばれていたのですが、これがなかなか難しいものでありました。今振り返ると、一言に「街の活性化のため」と言っても、学生がやりたいこと、商工会がやりたいこと、行政がやりたいこと、は当たり前ですがそれぞれ違うんです。細かく言えば、学生同士でも違うし、商工会の会員の中でも違うし、行政職員の中でも違う。それをしっかり確認できないまま、企画ありきで進んでしまったことで、一体感や方向性を見失ってしまった感があります。
もっと上手くやれたなぁ、もっと頑張れたかなぁと今でも後悔することはありますが、利害が相反するようなことでも、言いたいことは始めに共有すべきだなと強く感じる経験となりました。飲み会でもいいし、なんでもいい。関係者それぞれが本音で話せる場をまず作ることは大切だと思います。
「まちづくり」の目指す方向として語られがちな「産官学」連携。全く間違ってないと思うし、私は再度取り組んでみたいのですが、各関係者が何を価値として生きているかを互いに理解し合えなければ、持続的な関係にはならないでしょう。逆に言えば、持続的な良い関係ができれば、良いプロジェクトは自然に生まれていくはず。
大学卒業後、市役所で4年間仕事をすることになった時もそれをとても感じました。役所内では、それぞれの部署で全く仕事の内容が違う中、何か連携をするときは人間関係が上手くできている時ほど、良い結果が生まれる。それは、どんな職場でもきっとそうだろうと思いますが。
以上が、私にとって主に国立における「まちづくり」に関わる経験、学び、そこから感じとってきた意味です。
正直、今の街全体にとってそれは重要な概念かは分かりません。ですが私にとっては大切な概念としてずっと寄り添ってきてくれた言葉なんだと思います。
そして、これから市民・地域活動、政治活動として私が目指す「まちづくり」においては、今の時代に必要で、基本的な価値観を一人でも多くの方と共有し、つながっていくことが、魅力的な街を形作っていく要因、推進力になると考えています。その軸になっていくと私が考える価値観が以下のものです。
<地域の芸術・文化を守り発展させる>
地域の歴史を共有するのに、その芸術・文化を知り、参加することは非常に有効な方法だと思います。また、人が集まるきっかけ作りとしても、それが果たす役割が大きいでしょう。ただし、これからも多様な人が集まるには、バージョンアップさせていかなくてはいけません。
<農や自然が日常にある>
まず何よりも身近な「生産」の場である田畑と、生きる活力を絶えず与えてくれる自然環境が日常にあることは、消費地になりがちな東京の街が、今後新しい暮らしや仕事のスタイルを生み出していく「生産地」になっていくには欠かせない要素だと考えます。
<モノ、コトの付加価値を上げていく>
国立市はもとより日本の各地域では、質の高い商品やサービスは山ほどあるのに値段が上がらず本当に勿体ないと思っています。ただ、同じモノ(例:商品)やコト(例:サービス)でもその価値は、誰が受け取るかによって変わります。これからの日本のマーケット状況が厳しい中では、小さなモノやサービスであっても海外へ売っていく(輸出する)ことで価値を上げていくしかない方法はないのではと考えています。
<ジェンダー平等を目指す>
これは形式的なことだけでなく、心理的なことも含みます。社会的な役割について、性別にかかわらず、互いに公平に自由に発言し対話し合意を作っていく。これが良い人間関係を生み出し、あらゆる良いサイクル(循環)に繋がっていくと信じています。
<外国籍を含むすべての子どもがずっと住みたいと思える>
蔑ろにされがちな子どもたちの意見や思い、特に外国籍の子どもたち。ですが、彼らは地域社会のアンカーポイント(「碇」のような存在)ではないでしょうか。子どもたちが地域全体でしっかり支えられていれば、自ずと大人たちの役割や居場所も安定していく。そうして子どもたちが住みたいと思えるような街は、ずっと未来に続いていくのではないでしょうか。
最後に、森川すいめいという精神科医の理論(メモ)を借りて締め括りたいと思います。
彼は『その島のひとたちは、ひとの話をきかない−精神科医、「自殺希少地域」を行く−』(2016、青土社)の中で、いくつかの「自殺希少地域」でフィールドワークを行いながら共通点として気づいたことを以下の7つの原則(メモ)としてまとめています。
①「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい」
②ひととひとの関係は疎で多
③意思決定は現場で行う
④「この地域のひとたちは、見て見ぬふりができないひとたちなんですよ」
⑤解決するまでかかわり続ける
⑥「なるようになる。なるようにしかならない」
⑦相手は変えられない。変えられるのは自分
詳しい説明は割愛しますが、私が好きな国立は、基本的にこの全ての条件を既に満たしているのではと思っています。ただ残念ながら、データ的にまだ「希少地域」ではない。まだ全体に浸透しきっていないのだとしたら、そうなるように私も十分努力していきたいです。
2月25日 高野宏
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